HANARART2013
「奈良・町家の芸術祭HANARART」が今年も地元にやってきたので見てきましたよ。
地元商店街のイベントも重なってて、なかなかの賑わいでした。作品も面白かったのですが、街を歩き回ってあらためて見直せるのが楽しい。陶器屋さんのアンティークの招き猫は参考品ということで商品じゃないのですが、左下に顔だけ映ってる小さい方は、レプリカで売りもの。以前から狙ってるんだけど…なにかきっかけがあればね…。
大和郡山会場は20日までです。
http://hanarart.main.jp/2013/koriyama.html
異国まちなみ散歩・その1
長崎はイエズス会の影響下で貿易港として建設された都市で、以来、その栄光も悲惨も全て異国との関わりの中にありました。今でも市内のあちこちに、国際交流の跡をとどめた町並みが残っています。二日目はそんな街並みを歩きました。歴史の流れは前後しますが、僕が訪ねた順にちょっとご紹介。
1東山手
幕末から明治にかけて設けられた外国人居留地の一部です。長い鎖国が終わり、開港五港のひとつとして長崎が開かれたとき、この一帯が外国人のための街になりました。いまでも古い洋館が残り、キリスト教系の学校や病院が集まっています。
↑有名なオランダ坂。
↑別な坂ですが、こちらもオランダ坂といいます。
↑旧イギリス領事館の裏側。なんとなくマレーシアを思わせる。
2長崎新地中華街
江戸時代には中国からの輸入品を保管するための倉庫街でしたが、明治になると華僑の人たちが移ってきて中華街になりました。チャンポンを食べたいならここですよ。チャンポンも明治時代に華僑の料理人が考案した料理だとか。長崎ではすっかり生活に定着した料理らしく、市内のスーパーを覗いてみるとチャンポン麺やチャンポンスープやチャンポンの具がいっぱい。
3館内町(唐人屋敷跡)
新地が中華街になる前、つまり江戸時代、清国から来た貿易商や船員はこの地区で暮らしました。唐人屋敷と呼ばれ、鎖国ですから外との行き来は制限されていましたが、多くの中国文化がここから長崎市民に広まったそうです。明治以後は日本人の街になっているのですが、中国式の四つのお堂が残り、それが昭和的下町情緒と不思議にマッチして、台湾かどこかにいるような感じ。
↑左側にあるのが土神堂。
↑天后堂。
↑観音堂。なぜか猫が案内してくれました。
↑福建会館。
ここはあまり観光に来ている人もいませんでした。不思議な街でした。
…「その2」につづく。
長崎の鐘
先週の長崎旅行の事を、忘れないうちにちょこちょこと書いていこうと思います。
長崎は初めてでした。で、行く前に何冊かの本で予習しておきました。すこしでも歴史を知っておくと旅行が面白くなりますね。
たとえばまあこんな本です。他にも、長崎文献社の「旅する長崎学」のシリーズはとてもよかったです。(http://www.e-bunken.com/shopbrand/014/O/)
一日目、長崎に着いて最初に行ったのは浦上天主堂です。長崎カトリックの本山であり、建物の規模でも信徒数でも日本有数の教会だそうです。
ロマネスク風の美しい煉瓦色の教会ですが、これは鉄筋コンクリートで再建されたもの。かつての赤煉瓦の建物は、数百メートルの至近距離に投下された原子爆弾によって破壊されました。
被爆した聖人像と、爆風で吹き飛ばされた鐘楼が保存されてました。教会にいた神父と信徒は全員亡くなられたそうです。
浦上は江戸時代には苛烈な禁教政策に耐え続けた隠れキリシタンの郷で、幕末になって日本に来たフランス人神父が再発見した信徒はこの地の農民たちでした。しかしその歴史的発見が、明治政府による最後の大弾圧を招く事にもなります。配流された彼らの一部は僕の住む大和郡山にも預けられたとかで、なんというか不思議な縁です。
日本でも最も深くキリスト教が根付いたこの場所が、同じキリスト教徒のアメリカの原子爆弾によって焼き尽くされたとは、なんという残酷な歴史か。
その後は、長崎歴史博物館と長崎県立美術館に行きました。
南蛮貿易、キリスト教、オランダ貿易、蘭学、中国文化、開国、さらに戦争と、長崎は常に日本の外との関係によって特異な歴史を歩んできた都市です。奈良や京都とはまるで別の世界。
そして夕食は名物トルコライス。どのへんがトルコなのか。
でもおいしい。生きているということ。