「移動祝祭日」を読み終えました
電車の中で、最後まで読みました。ラストが切ない。悔恨と自己弁護に満ちた別れの記憶。
フィッツジェラルドは終始一貫して滑稽で可哀想な描かれ方をしてましたが、「グレート・ギャツビー」に対するヘミングウェイの敬意は本物ですね。この部分は感動的でした。
最後まで読み終わったとき、私は覚ったのだった。スコットが何をしようと、どんな振る舞いをしようと、それは一種の病気のようなものと心得て、できる限り彼の役に立ち、彼の良き友になるよう心がけなければならない、と。スコットには良き友人が大勢いた。私の知るだれよりも大勢いた。しかし、彼の役に立とうと立つまいと、自分もまた彼の友人の輪の新たな一人になろう。そう思った。
- 作者: フィツジェラルド,野崎孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1989/05/20
- メディア: 文庫
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そして、読み終えてなにより驚いたのは、ヘミングウェイの名言として知られるこの言葉が、この本の中には出てこない、ということ。
もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
この言葉、この本のタイトルにもなり、巻頭に掲げられています。たしかにヘミングウェイの言葉には違いないのですが、本に書いたのではなくて、友人に語った言葉だったとか。その友人がメモしていたらしい。
ヘミングウェイの死後、遺稿であったこの本にはタイトルがついていなかったそうです。それで、ヘミングウェイ未亡人と友人たちが相談してつけたのがこのタイトルであり、巻頭言だったそうです。
最後に思ったことがいくつか。
まず、「やっぱり、どうせ読むなら優れた文章を読まなきゃだめだなあ」ということ。優れた文章は指針を与えてくれるような気がします。
それからもうひとつ、1920年代のパリはすごく魅力的だけど、それは僕自身の街ではないということ。
「そらあたりまえですやん、ムッシュー」
「そない言うけどマドモアゼル、僕、これ読んどる間は自分がパリにおるような気ぃしとったで」
「ノンノン、そら錯覚やわ。そもそも、あんたがパリに行ったかて、そらただの観光客ちゅうもんですやろ? フランス語もでけへんねんし、モンマルトルで似顔絵描いてもろたり、ルーブルでモナリザ饅頭買うたりしますねんやろ?」
「セ・パ・ポシーブル。モナリザ饅頭なんてそんなんあるかいな、あんた」
いまあなたがいる場所が、あなたのパリです。
本当にパリにいる人は、そりゃうらやましい限りですけど。