読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ナショナリズムの無い国?

不思議の国ベラルーシ―ナショナリズムから遠く離れて

不思議の国ベラルーシ―ナショナリズムから遠く離れて

 県立図書情報館で面白い本を借りた。
 旧ソ連から独立したベラルーシ共和国についての本です。なんとも不思議な国だ。
 
 中世以来の歴史の大半を通じて、ポーランドとロシアの中間的な存在として、曖昧な位置づけだったベラルーシの人々。民族や国民という意識を確かなものにできないまま、ソ連解体に伴って、自ら望みもしなかった独立国という地位を手に入れてしまいました。そして今でも国民の大半は、自分たちはベラルーシ人であるという認識をぼんやりと持ちつつも、自らをロシア人やポーランド人とはっきりと区別できるような民族意識をもてないでいるのです。
(大半の人は日常ロシア語を話し、ベラルーシ語は理解できるだけ。サッカーの国際試合ではロシアを応援し、ソビエト時代を栄光の時代と考えている。国の歴史も知らず、文化財を守ることもせず、民族を代表する偉人は? と問われても答えられず、本も雑誌もロシアのものを読んでいる)
 
 日本民族・日本国家の存在をほとんど疑ってもみない日本人(一部の左派知識人やニヒリストは疑ってみせたりもするけど、あれは思想信条と観念に基づくポーズに過ぎないのじゃないか)とは全く異なるアイデンティティを持っている、こんな国民が、民族主義渦巻く東ヨーロッパにいるというのが、なんとも不思議。
  
 それから、この本の好ましい点は、ベラルーシに対する著者服部氏の愛情や迷いが文章に現れていること。もともと左寄りのリベラルな思想をお持ちらしく、ナショナリズムに対して否定的な考えだった服部氏が、ベラルーシの人々と語り合ううちに考えを変えていかれるのがとても興味深く、しみじみと胸に迫ったのでした。
 
 ちょっとくどいけど引用します。

「日本のような成熟した国民国家の人間が、自国のナショナリズムを克服しようとすることには、意義があるだろう。しかし、そのことに急な余り、まったく条件の違うベラルーシのような国に、自分たちの問題意識を押し売りするようなことは慎みたいものだ」
 
「(ベラルーシの人々が)自意識や主体性を欠いているがゆえに、これまで自分たちの利益をしかるべく擁護してこられなかったことは、間違いないのではないか」
 
「『脱ナショナリズムの模範、あっぱれベラルーシ』とは、私にはどうしても考えることができない」
 
「我が国においては、先の戦争に対する痛切な反省から、進歩主義的な知識人の間に、国民にナショナリズムを植え付けることに対する根強い警戒感がある。かく言う私も自分のことを、そうした人間だと信じていた。そんな私が、ベラルーシという特殊な事例にもとづいてではあれ、ナショナリズムを擁護することになろうとは、自分でも思いもよらないことであった」
 
「日本でナショナリズムを批判する論陣を張っているような理想主義的な知識人が、現下のベラルーシの状況におかれたら、まず間違いなくナショナリズムの旗手になるだろう」
 
「私は社会科学者として、民族なり国民なりというものが「想像の共同体」にすぎないことは知っている。しかし、今となっては、幻で構わない、これからもずっとベラルーシを見ていたいという気持ちである」

 なんて率直な言葉でしょうか。このような書き手こそ信頼できると思うのです。