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復活の日

復活の日 (ハルキ文庫)

復活の日 (ハルキ文庫)

 というわけで、「復活の日」を再読しています。かいつまんで言えば、風邪(のように見えて、実は生化学兵器)の大流行で人類のほとんどが滅亡してゆく話です。いやあ、面白い。四十年も前に書かれたとはとても信じられないほど、今でも衝撃力を持っていますね。
 ちょっと長いけど、引用。月曜の大阪の様子を思わせます。

 こみあわないで、ゆったりした車内にもかかわらず、乗客の顔はどれもつきつめた不安な表情でいろどられていた。――彼らもようやく、このラッシュ時の周辺にあらわれ出した、歯のぬけたような空間の不気味さに気づきはじめ、事態が容易ならざる段階にきているということをさとりはじめたのだった。五月だというのに、合オーバーをきこんで、首に絹マフラーをまき、汗をかいている男がいた。車内をちょっと見わたせば、花びらのように白いマスクが点々と見え、人々はあらためて、このガサガサにすいたラッシュの上り電車の中で、その背筋を走る悪寒が、あのいまわしい”チベットかぜ”に感染した兆候ではないかと思って、ギョッとする。誰かが熱っぽいうるんだ眼をしており、誰かがはげしい咳をすれば、人々はうす気味悪そうに、横をむき、身をひく。しかし、その人々もまた、ほとんどが、眼や呼吸器の重くるしい鈍痛を感じているのだった。厚生省の手もとに来ている非公開のデータでは、日本全国のチベット風邪罹患者は、すでに三千万人に達しようとしていた。

 こうして書き写してみると、意外にひらがなが多いなあ。

 小松左京さんのこの手のSFの魅力は、なんといっても深い教養と広い知識に支えられたリアリティにあります。社会や経済、国際政治などへの影響の描写がすごくリアルなんです。そしてその知性や認識のバックボーンには、昭和二十年の敗戦の経験に裏打ちされた文明観や人間観があるのが感じられます。敗戦体験は、ほとんど常に小松氏の作品に黒々と影を落としているし、文学やSFに取り組む原動力ともなってきたのでしょう。

 こういったパッション(情熱=受難)と広い世界観・文明観は、昭和一桁前後に生まれた作家や学者や著述家にある程度共通のものであり、それ以降の作家には逆立ちをしても得られないものです。団塊世代のみなさんの世界観はどこか観念的でウソ臭いし、その子どもたちである僕らの世代に至っては、現実をフィクションになぞらえて理解することしかできなかったり、人物造形をキャラクターのパターン類型ぐらいにしか思ってなかったり、自分の内面が世界そのものになっちゃってたり、国家との一体性にアイデンティティーを見出すところまで先祖返りしちゃってたりで、「世界観」なんて言葉は、小説やゲームの演出方法程度にしか思っていないという有様。いやいや、なにも「平和ボケ」批判をしようっていうんじゃないです。第二次大戦は史上最大最悪の流血だったし、そんな悲劇による広い視野なんて、得られないほうがもちろん幸せなわけで、われわれは、彼らの経験と知恵を受け継いでいけばいいのでしょう。人類史上類を見ない平和ボケ世代だからこそ、僕らにしかできないこともあるでしょう。僕らにしか書き残せない知恵もあるはずです。

 しかしまあ、とにかくそんなわけで、小松氏の小説には、個人の存在の卑小さとかけがえの無さを正面から見据え、それを心底思い知って腹を括ったような、決然としたところがあります。偉大な冷徹さと、包容力。そして、それにふさわしく、いささか大仰で古めかしく重々しい言い回しと、俗っぽい表現とのメリハリの効いた文体や、カタカナ語の使い方などが、これは教養の無い作家がやったら格好悪いけど、小松氏の場合は魅力的な「小松節」を作り出しています。おすすめ。