卵と壁について、訳者あとがきのようなもの

 びっくりしました。軽い出来心で抄訳を載せたら、この数ヶ月でようやく一万を超えたばかりだったカウンターが、昨日のうちにたちまち3万近くまで跳ねあがったんですから。あらためて、ネットの威力の素晴らしさ、恐ろしさ、村上春樹さんの影響力の大きさを感じました。

 さて、あひるさんもご指摘くださっている通り、昨日の夜ぐらいから、イスラエルの新聞「ハアレツ」のサイトに村上さんのスピーチの全文と思われるものが"Always on the side of the egg By Haruki Murakami "と題して掲載されています。ぜひ、ご覧になってみてください。おそらく、これが完全版だと思われます。(http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html

 なぜなら、

1.今まで各メディアが断片的に引用していた内容が全て含まれている
2.イスラエルにとって耳の痛いことも全部ばっちり書いてある
3.首尾結構がきちんとして、内容も文章も一貫している

 からです。
 そして、記者の聞き取りにもとづくものではなく、村上さんがイスラエルのメディアに渡したスピーチ原稿そのものではないかと思われます。というのも、

1.冒頭の皮肉めいたユーモア「失礼、大統領閣下」という部分が無い。これはおそらく、ペレス大統領を目の前にした村上さんのアドリブだったのではないか。
2.最後の「イスラエルの皆さん」への挨拶が全然ちがう。これも、聴衆の反応を目にしての村上さんの即興だったのではないか。
3.まったくの主観だけど、文章の流れがとても美しく、英語であるにもかかわらず村上春樹の文章のにおいがぷんぷんしていた。

 からです。


 一読するなりとてもうれしくなって、早速翻訳に取り組みました。こんなことは生まれて初めてで、自分でも驚いたのですが、訳しているうちに心を動かされ、涙が出てきました。というか、泣きました。僕らと同じ時代、同じ日本に村上春樹という作家がいることを、本当にうれしく、誇らしく思いました。


 さて、以下は私見です。
 率直に言って、もしこれがイスラエルを名指しで批判するような政治的メッセージであったなら、どんなに真摯なものであってもプロパガンダの匂いを拭いきれなかっただろうし、ここまで心を打たれることも無かっただろうと思います。
 村上さんのこのメッセージは、イスラエル政府によって苦しめられているパレスチナの人々のみならず、大小さまざまなシステムの力との軋轢に悩む、世界のすべての人々への連帯の表明であるように、僕には感じられました。いつかガザでの戦いが終る日が来ても、どんな時代が来ても、このメッセージは全ての人々の上に効力を持ちつづけるのではないでしょうか。


 僕も心情的にはパレスチナ寄りなので、「村上春樹は曖昧だ」「名指しを避けた」「無責任だ」と批判なさる方の義憤も苛立ちも理解できるつもりです。しかしそのようにおっしゃる方々には、政治家と小説家とでは、「責任」というもののあり方も、発する「言葉」が果たす機能も、全く異なっているのだということを念頭に置いていただきたいと思います。
 小説家「村上春樹」としての主張と表現方法を、授賞式の場でも貫きつづけること。それこそが、彼にとって最も正当な筋の通し方だったはずだと僕は考えます。その意味で、あの場にあっても「村上春樹」としてイスラエルの人々に語りかけた村上さんを、僕は尊敬しますし、全面的に支持したいです。


 で、下手の横好きと言うのはまことにえらいもので、そんなことを考えながら一応全文を翻訳したのですが、ここにひとつの問題が生じました。
 この全文は「by Haruki Murakami」という署名入りで「ハアレツ」に掲載されたものです。だから報道記事ではなく、村上春樹氏の著作物と考えるべきものでしょう。これを全文引用して全訳を掲載するとなると、村上さんの著作権への侵害になってしまいます。今まで僕がやってきた報道記事からの引用・翻訳も、おそらく法的にはグレーゾーンだと思います。ましてやハアレツからの全文の引用は、確実に違法でしょう。よって、訳文の掲載はできない。そう判断せざるを得ませんでした。


 おそらく、僕が掲載しなくても、もっと上手な方が翻訳してアップされるだろうと思います。すでに出ているはずです。いずれにしても全文が出た以上、この件に関する僕の役割はとりあえず終わったのだろうと思います。


 しかし、原文と思われるものを見てしまった以上、昨日載せたいいかげんな部分訳をそのままにしておくわけにもいきません。いろいろ考えましたが、「ハアレツ」掲載版を見た印象を念頭に、報道記事からの部分訳を正確な順序に並べ替え、字句を見なおし、「ハアレツ」版から得た知見に基づく訳注をつけた三訂修正版を掲載することにしました。これが合法なのかどうか、正直に言って僕には判断できません。違法だとお考えになる方がいらっしゃったら、ご指摘いただければ助かります。速やかに対処したいと思います。


 しかしそれにしても、今回のことで、メディアの恣意性のおそろしさを改めて認識しました。特に、Pineさんもご指摘のように、イスラエルに対して批判的な語句を曖昧に要約しておきながら、「この作家一流の難解さ」などとうそぶいている「エルサレム・ポスト」には大いに疑念を覚えます。wikipediaによれば「ハアレツ」は中道左派、「エルサレム・ポスト」は右派ということなので、そういった政治的姿勢が記事に反映していると見るべきでしょう。
 しかし、日本のメディアはどうなんでしょうか? 不安になります。


 最後に、コメントをお寄せくださった皆様には、本来ならばお一人ずつにお返事をさせていただくのが筋だとは思うのですが、なにぶんこのようなことには全く不慣れなもので、大勢の皆さんにきちんとしたレスをすぐにお返しすることはできそうにもありません。大変恐縮ですが、みなさんの共感とお励ましには、この場を借りてお礼を申し上げさせていただきます。まことにありがとうございました。


 今後は、訳文にちょこちょこと手を入れつつ、福井県のように(失礼)ひっそりした普段どおりのブログに戻ります。本と猫のことでも考えながら。



(写真は、上から順に福井県、本、猫)